愛宕公園という場所は、郡上を治める支配体系を変革していった時代、郡上八幡が城下町として形成される時代、そして明治から昭和へと文明の繁栄を謳歌する時代と郡上八幡の時代の節目にあってその要所として在った場所です。元は自然とともにある鎮守の森である愛宕”山”が、人々の歓びをあつめる愛宕”公園”となることで、自然・歴史・文化を抱く比類なき場所となっているのです。その痕跡として残る歌碑や古牌、天然記念物となっているモリアオガエル、東殿山へと到る三十三所の観音様、400年の樹齢となる墨染めの桜、慈恩禅寺の加護によって守られる円通閣、戦没者眠る記念碑、今は廃されはしましたが私設動物園など、見渡せばいろんな有志たちが、この公園に関わることでこの「まち」に生きる証を残し、出会いや発見を享受してきました。一度にはできません、ひとつづつ愛宕公園に在る魅力をお伝えをいたしたいと思います。
東殿山から
時代は土地の加護から領地化へ、東氏の滅亡
日本が中世という時代を迎えるまで東氏は地頭として長らく郡上を治めていました。しかし今は大和町にある篠脇の地が合戦で荒らされるに到り居城をこの愛宕山横の東殿山に移ったとされ、現在でも当時の石積みを見る事ができます。愛宕山の界隈は高台に若干の平場があったためか東氏の陣屋も今の公園一帯に構えていたと云われています。さて、時代は貨幣経済の流入や土地分配の破綻によって支配構造が変わる時代へと、そして戦国時代へと到ります。東氏はその時代の潮流に乗り遅れることにより、ついには遠藤氏に滅ぼされることとなるのです。おそらくはこの場所でも修羅なる合戦が展開されていたと想像できます。
お城山と城下町
築城と城下町形成へと
東氏の滅ぼした遠藤氏は、経済流通を促進するための集積地を求めることとなりました。且つ戦乱の不安定な時代背景により、同時に堀のように川に囲まれた地勢を利用するために愛宕山の対岸となる、築城を現在の郡上八幡の場所を選ぶのでした。
郡上城主奪還
天下分け目の関ヶ原
豊臣秀吉の治世となりましたが、遠藤氏は豊臣への反目により郡上の城主から外され稲葉氏が郡上を治めていました。郡上城主を奪還する機会を狙う遠藤(慶隆)氏は、ますます力をつけていた徳川家康に城攻めの許諾と加勢に金森氏の軍勢を得、時に関ヶ原の合戦で稲葉氏の本隊が出てしまっているのを期に城攻めを仕掛けていきます。その時、遠藤氏は戦略の要所として愛宕山に本陣を据えるのです。
戦乱の果てに
愛宕山での死闘によって
本隊が不在と言えど、川を渡り険しい城山に遠藤氏は苦戦を強いられます。攻めきれぬうちに、知らせを聞いた本隊が引き返してきました。金森氏と城山を挟み撃ちにしていた戦略が、逆に遠藤氏が挟み撃ちとなってしまい、混乱した遠藤氏側の軍勢は多大な被害を被ることになりました。しかし双方の消耗ゆえに直後に和議となり、関ヶ原の合戦の勝利者たる徳川家康の裁定により遠藤氏は郡上八幡城主に復帰することなりました。今、愛宕公園に佇む古碑や「墨染めの桜」はこの愛宕山での戦いを偲んで配されたと云われています。また初代郡上藩主となった遠藤慶隆は、愛宕一円を慈恩寺に守らせ、愛宕神社を祀り、生命の象徴である瓢箪池・勝軍池を造ることでこの地を再び争いの地とならぬよう配慮することで郡上八幡城下の「まちづくり」の始まりとしたのです。
城下町から都市文化の形成へ
明治維新後、急激な近代化の波は郡上八幡にも大きな影響を与えます。特に富国強兵策によって振興された蚕の産業化は郡上一帯に及びました。郡上八幡はその蚕から得られる繭の集積・流通地として、郡上八幡ではタクシー業が起り、映画館が建ち、遊興街が賑わうなど、岐阜の山間地方としては異例といっていいくらいの繁栄を享受してきました。もともと城下町として人・物・金を集積していた気風が文明化と馴染みやすい素養を持っていたのかもしれません。
愛宕山から愛宕公園へと
郡上八幡における都市文化の繁栄は、繭の原材料流通から製造産業の起りによって拡大していきます。現在のスポーツセンターには製紙工場があり、吉田川の対岸には紡績工場がありました。工場労働のために労働者も郡上八幡に移り住むことで愛宕山周辺にも町家の集落が拡がってきたのです。かくして進む都市化の果てに福利厚生としての憩いの場所が求められることになりました。ここに愛宕山は幾つかの平場を整備するに到り「愛宕公園」と称されるようになったのです。
愛宕公園との憧憬
愛宕公園で、「まち」で、居酒屋で、郡上八幡に暮らす人たちは時折、愛宕公園での想い出を語ります。ここに来れば友達の誰かがいて一緒に缶ケリやかくれんぼで走りまわる、雪が降れば坂を使って竹スキーやソリを走らせる、有志が資金を出し合い料亭の二号館を建設し歌を楽しむ、テーマパークや移動動物園が親子を楽しませる、動物園のクジャクやツキノワグマに驚き、夜桜にぼんぼりのように顔を紅くして呑み合った花見の出来事、それはまだ遠い過去の話ではありません。まだ生きている人たちの憧憬としてまだ残っているのです。
愛宕公園に子どもが遊ばなくなったね、
昼も夜もなんだか暗いね、
いつからでしょうか、愛宕公園が寂しい場所であるように囁かれるようになりました。確かに、夜となれば防犯のはずの外灯も時々消され、公園周辺の樹々は伸び放題で鬱蒼とした風景です。子どもたちはかつてのようにあつまって遊ぶよりは塾通いか、部屋でゲームの方が良いのかもしれません。地勢も変化しました。かつては中学校が現在の市役所に建っていて部活動の一環で三十三間道(三十三所の観音様)の坂を走っていました。また、「まち」と愛宕公園を分断する国道の以前は交通量が少なく横断がしやすかったと感じます。子どもの集うところには必ず駄菓子屋があってそれは愛宕公園の例外ではありませんでした。しかし、寂れているのは愛宕公園なのでしょうか?寂れているのは「まち」が、そして私たちの心なのではないでしょうか?少子高齢や不況など多難な時代となり、その一節に私たちは生きています。愛宕公園が活き活きとした時代の舞台となることで私たちの「まち」が元気となること、その意味は結果として、愛宕公園の風景が美しくなっていくということと同義なのです。